「鉄」ブームなのだそうで。ちょっと考えてみれば、そんなに簡単にブームになるはずもないのだけれど。深く潜行していた「鉄」熱がじわりじわりと表面に滲み出してきて、それを感じ取った浅はかなメディアが煽り、大衆が踊らされているという構図なのでしょうね。おかげで、「鉄」を題材にとったドラマが出現したり、女性の「鉄」を主人公にしたマンガがもてはやされたりしているようです。あ、懸命なる皆さまはすでにお分かりの通り「鉄」は鉄道マニアのこと。世間が騒ぐ以前から、しぶとく取り上げていた「タモリ倶楽部」などの地道な教宣活動によって、今日の不思議なブームが存在するのでしょう。さてこの小説、タイトルからもわかるように明らかに「鉄」が題材です。そして、表紙の絵で見る通り、電車とは京急電車のことなのです。では。この小説が、純「鉄」小説なのかというと、さにあらず。さまざまな人生を交錯させた群像小説であり、ブルース魂を持ったハードボイルド小説であり、引きこもりが立派に立ち直るビルドゥングス・ロマンであり、愛に臆病になっている中年男女の恋愛小説であり、かつて妻を亡くした男の哀悼小説であり、私生児の出生の秘密を探るミステリーでもあるのです。とまあ、こう書くと、よくまあ詰め込んだものだという気もしますがしかし、相当の傑作ですよ。発端は4年間引きこもりをやっている田宮純一がおじ・石田三郎の助言で社会復帰するところから始まります。三郎は神奈川電鉄(略称・神奈電)の下請け会社を経営していて、純一は作業着の洗濯をすることになったのです。そこで彼が出会ったのが、黒目勝ちで無口な職工・赤城でした。読み始めて、これは純一が主人公で赤城によって成長するという物語なのかな、と思いました。ところが違うのです。2章になると主人公は石田三郎になります。この短編連作小説は、各章ごとに主人子が変わりながら、赤城という人物像を描いていくという手法をとっているのでした。赤城は神奈電の象徴でありながら、どんどん旧式になっていく1000形電車整備のエキスパートです。しかし、ある事件をきっかけに退社、紆余曲折を経て下請けの三郎の会社で現場復帰していたのです。純一や三郎だけでなく、赤城の同期で絶対音感を整備に役立てている佐島、元マグロ漁師の荒くれ整備班長・原口、
三郎を愛する福島出身の小料理屋の女将・恵、強力なコネで神奈電に入社したものの下請けいじめばかりしている加藤、ロシア人との混血で一時は美人アイドル運転士となりながらも整備の現場に籍を置いているユカリなど、赤城を巡るさまざまな人々のキャラクターも魅力的です。詰め込みすぎともいえるネタの数々を結末に収束させるための、多少のご都合主義はともかく、こんなに素敵な神奈電の整備現場を描いただけでもこの小説には存在価値があると言えるでしょう。
作者の山田深夜さん、これがデビュー作ではありません。実はすでにバイク小説で2冊の著書があります。そのどちらもの出版元が寿郎社。ご存知でしょうか。札幌にあって、東直己さんの著書を多数出版している、小さな出版社です(現在も東さんのエッセイをネットで連載中)。僕も実は山田さんの風貌と小説はこのネットで知っていたのです。「千マイルブルース」と「横須賀Dブルース」。興味は持ったのですが、あまりにエッジが立っていて(だって、「千マイルブルース」の表紙モデルは作者ご本人なのですよ! 「赤城」のカバーにも写真が載ってたけど、強面だよなー)ちょっと読むのをためらっていたのです。しかし、読んでみなくっちゃ、ね。